昔流行ったようなのでいくつか動画をみた。
95年当時には、その場で、すぐにしゃべるべき内容を思いつく反射神経はずば抜けていたように思う。
最近は、空気を読んで適切な答えを答える能力にはさらに磨きがかかっているように思う。
話題のそらし方、まずい質問にはま正面から答えない、ことは徹底されている。
英語の答弁に関しては、発音は良くないが、文章が作れていること、はっきりとしゃべることは訓練されていた。
それはノンネイティブが公に向かってしゃべるときに重視されるポイントではあると思う。
2013年12月1日日曜日
百点を取る能力がある場合に百点を取るのがベストか?
昔「レジンミルクキャスト」というラノベを呼んでいた時に、主人公が、全ての科目で百点を取ることはたやすいが、あえて空気を呼んで七十点をとるようにしているという内容のことを言っていた気がする。
自分が高校のときには全力で百点を目指すべきという発想しかなかったので、学校という社会にいる一員として生き残るという目的において、百点を目指すよりも、あえて力を抑圧して七十点を取るようにした方が、生存確率が最大化されるのではないかという考えがあること自体に驚いた。
もちろん現実問題として最適解とは思えないが。
また、高校を出た後のことも考慮すれば、どちらが最適解かは分からない。
目の前の定期試験に時間を投資しすぎるのはあとあとまずく なるかもしれないという危機感に基づいたバランス感覚はもっているべきだっただろう。
自分が高校のときには全力で百点を目指すべきという発想しかなかったので、学校という社会にいる一員として生き残るという目的において、百点を目指すよりも、あえて力を抑圧して七十点を取るようにした方が、生存確率が最大化されるのではないかという考えがあること自体に驚いた。
もちろん現実問題として最適解とは思えないが。
また、高校を出た後のことも考慮すれば、どちらが最適解かは分からない。
目の前の定期試験に時間を投資しすぎるのはあとあとまずく なるかもしれないという危機感に基づいたバランス感覚はもっているべきだっただろう。
2013年11月30日土曜日
古典物理学と歴史
歴史に限らないが文系的な現象を論理的に考察しはじめるとすぐに限界が来る。
例えば、日本がかつて経済的に成功した理由を述べろと言われた時に、
立地がよかっただとか、教育がよかっただとか、
その人の興味の数だけいろいろな要因をでっちあげることが出来る。
大抵の場合、自分の主張を宣伝するために利用される。
たとえば、日本民族の素晴らしさを説きたい人は
むりやりにでも日本人の良い面が経済的成功に結び付いたと主張する。
真に論理的になろうとすると、原子の動きまでさかのぼる必要がある。(原子が決定論的に動くと仮定しているが)古典力学が正しいとした場合に、
例えば、日本がかつて経済的に成功した理由を述べろと言われた時に、
立地がよかっただとか、教育がよかっただとか、
その人の興味の数だけいろいろな要因をでっちあげることが出来る。
大抵の場合、自分の主張を宣伝するために利用される。
たとえば、日本民族の素晴らしさを説きたい人は
むりやりにでも日本人の良い面が経済的成功に結び付いたと主張する。
真に論理的になろうとすると、原子の動きまでさかのぼる必要がある。(原子が決定論的に動くと仮定しているが)古典力学が正しいとした場合に、
2013年11月24日日曜日
暴力によって成長を加速できるか ~文明論・教育論的見地から~
既得権益により社会は固定され、文明の進歩は遅れる。
止まった時計の針を進めるためには、既存の社会の枠内で活動するだけでは不十分である。
暴力により社会の枠組みがこわれ、そのあとで正しい意思が社会の中枢を占めれば、文明は一気に加速する。
実際にフランス革命、明治維新、太平洋戦争後の民主化、これは暴力により文明が不連続てきに大きく前進した例である。
共産主義者たちはそういった性質は抽象化し、
文明が一つの軸にそって進化するというていを設け
積極的に暴力革命を繰り返ることでその進化を速めるべきだと考えたのかもしれない。
だが、共産主義はほぼ崩壊し、
日本国内においても、全共闘の活動は失敗した。
また、オウムによっても彼らもの持つ独自の価値基準に基づいた社会の進歩実現させるためにテロが行われた。
しかし、それも失敗している。
暴力による運動が失敗することは明治以前にもいくらでもあった(むしろ失敗することがほとんどだったのかもしれない。)
だが、あえて、その二つの失敗を特別視するならば、
社会が巨大化して、社会全体の情報量が増えすぎたことと、社会が成熟して多くの人が安定した生活を手に入れたことに原因があるかもしれない。
前者の結果として、情報速度が上がったことで、どのような価値も相対化されやすくなったので、社会全体で連帯することがありえなくなった。
後者結果として、多くの人にとって自分だけの既得権益をまもることに終始しても、それほど社会矛盾が生じなくなった。
止まった時計の針を進めるためには、既存の社会の枠内で活動するだけでは不十分である。
暴力により社会の枠組みがこわれ、そのあとで正しい意思が社会の中枢を占めれば、文明は一気に加速する。
実際にフランス革命、明治維新、太平洋戦争後の民主化、これは暴力により文明が不連続てきに大きく前進した例である。
共産主義者たちはそういった性質は抽象化し、
文明が一つの軸にそって進化するというていを設け
積極的に暴力革命を繰り返ることでその進化を速めるべきだと考えたのかもしれない。
だが、共産主義はほぼ崩壊し、
日本国内においても、全共闘の活動は失敗した。
また、オウムによっても彼らもの持つ独自の価値基準に基づいた社会の進歩実現させるためにテロが行われた。
しかし、それも失敗している。
暴力による運動が失敗することは明治以前にもいくらでもあった(むしろ失敗することがほとんどだったのかもしれない。)
だが、あえて、その二つの失敗を特別視するならば、
社会が巨大化して、社会全体の情報量が増えすぎたことと、社会が成熟して多くの人が安定した生活を手に入れたことに原因があるかもしれない。
前者の結果として、情報速度が上がったことで、どのような価値も相対化されやすくなったので、社会全体で連帯することがありえなくなった。
後者結果として、多くの人にとって自分だけの既得権益をまもることに終始しても、それほど社会矛盾が生じなくなった。
とある科学とオウムと80年代と
80年代のコミックとオウム真理教にはまってしまった理系エリート研究に傾倒した僕にとって、
とある科学の超電磁砲は響くものがあった。
一言で言うと、レールガンは、極めて80年代的であり、
またオウム的であった。
80年代に十代を過ごした人間の一つの特長として、
受験戦争という一つの価値観でほとんどの人間が計られ、それが、人生のほとんどすべてだという考えに支配されていたということである。
当時はバブル前ということもあり、一流大学に入れば、
一流企業に入ることがほぼ約束されており、(実際道を踏み外さなければ、受験に成功したという一点のみによって高給取りのまま50歳近くまで過ごすことが保障されてきた人間は多い。今では考えられないことだが)
受験勉強における成績が人生のほぼ全てを決めかねない状況は生じていた。(あるいは多くの人間がそうだと思い込んでいただけかもしれないが)
とある科学の超電磁砲は響くものがあった。
一言で言うと、レールガンは、極めて80年代的であり、
またオウム的であった。
80年代に十代を過ごした人間の一つの特長として、
受験戦争という一つの価値観でほとんどの人間が計られ、それが、人生のほとんどすべてだという考えに支配されていたということである。
当時はバブル前ということもあり、一流大学に入れば、
一流企業に入ることがほぼ約束されており、(実際道を踏み外さなければ、受験に成功したという一点のみによって高給取りのまま50歳近くまで過ごすことが保障されてきた人間は多い。今では考えられないことだが)
受験勉強における成績が人生のほぼ全てを決めかねない状況は生じていた。(あるいは多くの人間がそうだと思い込んでいただけかもしれないが)
まどマギのシナリオはどうやってつくられたか。技術的考察
まず最初にさやかの物語と、ほむらの物語が独立してつくられたのではないか。それらを一つの物語と統合するために、
説明役として巴マミ、QB、そして最後のまとめ(オチ)のために鹿目まどかが用意された。
こういう見方をすると、シナリオの骨格としては杏子のいる必然性はなくなる。
杏子がでることでより世界が深まったし良かったと思うが、物語の必然性からすると余分思われる。
うがった見方をすれば、12話の枠におさめるための尺稼ぎとも思える。
枠にとらわれず自由に作れたとしたら(商業作品である限り絶対にあり得ないことだが) 杏子を省くことで
より骨格がすっきりとしたストーリに出来たかもしれない。
説明役として巴マミ、QB、そして最後のまとめ(オチ)のために鹿目まどかが用意された。
こういう見方をすると、シナリオの骨格としては杏子のいる必然性はなくなる。
杏子がでることでより世界が深まったし良かったと思うが、物語の必然性からすると余分思われる。
うがった見方をすれば、12話の枠におさめるための尺稼ぎとも思える。
枠にとらわれず自由に作れたとしたら(商業作品である限り絶対にあり得ないことだが) 杏子を省くことで
より骨格がすっきりとしたストーリに出来たかもしれない。
まどマギのキャラにストーリ関するとりあえずの総括
鹿目まどかとそれ以外に分けられる。
湯浅誠の言うところの溜めがあるかどうか
ではっきり区別される。
鹿目まどかは溜めがある。
美樹さやかは不明。
その他は溜めがない。
溜めと行動に余裕が生まれる。
溜めがない方は余裕がなく、感情的に不安定
全員について言えるが、自閉的というか
アスペルガー的である。
一部のアニオタで同様の傾向を持つ人間には
深い共感を与えると思われる。
鹿目まどかは安定した過程の下に、
しっかりとした人格を持っている。
それが、緊急時における異様に冷静で大胆な判断
(巴マミを一発で打ちぬくシーン、さやかのソールジェムを投げるところ、最終話での契約のシーンなど)
安定した家庭環境がが安定した性格を生みと、キャリアウーマンである母の決断力がうまく受け継がれている。
また父親のやさしさも受け継がれている。
ようするに、両親の性格とまどかの性格の連続性がうまく描けていると思う。
巴マミの場合は両親や友人がいないことに対する
不安定性が顕著である。
善意で行動しているつもりが、
自分の都合の良いように他者を誘導してしまうところ。
自分の信じていた世界が壊れると、
錯乱してしまう。
溜めがないために、
与えられた状況に全て依存してしまう。
それが、QBに対する極端な信頼であったり、
まどかや美樹さやかを危険であるにもかかわらず、
魔法少女体験ツアーに連れて行ったり、
暁美ほむらに図星をつかれると、敵対してしまうところにあらわれる。
自分の世界が崩壊した時に対する極端な不安定は、
ほむらと対立するシーンやソウルジェムを打ち砕くシーンにも表れる。
依存性が、自らが正しいとする考えに対しても向くのである。
例えば、自分は正義のために魔法少女で戦っているという考え方や、後輩二人に対して善意で判断材料を与えている事が正しいとする考え方である。
それが壊れるとのは、具体的には、魔法少女のシステムが分かる、
あるいは、後輩二人を見学につれることが、彼女らにとって良い結果につながらないとほむらに指摘される時である。
自分の世界が壊された時に、そこに百パーセントに近く依存していたがために、非常に不安定な精神状態に陥り、それまでの一見しっかりしているように見えるふるまりがあっというまに崩壊してしまう。
暁美ほむらについて。
言うまでもなく一週目の鹿目まどかにすべて依存している。依存先をまどかに一元化しているがために、
一見強い安定性やエネルギーを生んでいるように見える。
しかし、まどかに関する状況が揺らぎ始めると、
その仮面が一気に崩壊する。
美樹さやかについて。
本人が幸せバカだというほどには
恵まれた環境にある。
早乙女和子がいうように、上条や仁美との
恋愛沙汰も、通常の思春期に経験しがちな
ことから大きくは逸脱していないように思う。
ただ、天才的な才能をもった上条が怪我により断念
せざるを得なかったこと。
幸せバカであることによる他者に対する異常な同一視。
自分の世界に以上に執着するという点が他の魔法少女と似ている。
佐倉杏子
魔法少女となりすぐに、自分の信じていた世界が崩壊するが、自分のために生きていくことを決断。
一見、現実を受け入れたかの用に見えるが、
こころの奥底ではかつてもっていた自分の世界を
信じたがっている。
美樹さやかにかつて同じ状況を見て改善を促したり、
同情したりするのもそれで説明される。
最後は自分の信念(妄想の世界)に殉じた。
まとめ
全員に共通して言えるのは、
自分の持っている世界観を強く信じる過ぎる傾向。
正しすぎる子供といいかえることもできる。
まどかとほむらを除いて子供の世界が崩壊するとともに、
自分の命も散ることになった。実は上条についても
同じことが言える。バイオリンが好きで才能で全てが通用する子供の世界が崩壊することで悲劇が生まれた。
まどかは母の助言や恵まれた環境を背景にした安定性や思慮深さにより、最後に子供であることを貫き通す決断をしそれがQBの世界観(大人の考え方、子供じみた感情よりも合理性を優先する考え方)に打ち砕くことになった。
子供的な世界観を強く持ったキャラクターが成長に失敗して悲劇を起こす様子が、おなじく、子供的な世界に深く没入している、あるいはそうありたいとおもっている大きなお友達に強い同情を引き起こし、そのしゃがみこみが、
最後のまどかに象徴される子供的世界観が大人的な世界観に勝利してそれが、そのまま宇宙全体の真理に書き換えられるという、子供的自閉的な世界観が宇宙レベルで全肯定されることにより
大きな感情の開放を生みだしたのだろう。
もし原作の虚淵玄がオタクの心情を読み取り
その感情の振れ幅を最大化するため(つまり魂の死、自らの子供世界の消滅=0から宇宙そのものが自分の望んだ子供世界になる+∞への上昇)にこの脚本を書いとすればすごい実験作だと思う。
アニメを作る戦略として、オタクの理想を書くことあるが、 彼らの持つ幼児性を最大限に利用できたのであれば、
それは、オタク業界の脚本家としてある意味で最高峰の成功(作り手としての目的を純粋化してそれをこれ以上ないレベルで実現する。)といえるだろう。
個人的には、それは実際かなり成功したと思われる。
また、今回の新編映画にさらにその傾向が追加された。
一期の最後では、ほむらは自分のアイデンティティーの全てであったまどかとは二度とあえなくなるが、まどかの残した世界(=概念となったまどかそのものの)でたたかっていくといういわば、妥協した世界で大人の女性に成長したのであるが ほんにんはそれを受け入れているかのように描かれている。
多くの大人になれないオタク達にはそれなりの痛みを感じるシーンであっただろうが、それぞれになんとか納得をしていたと思う。それでも、やはり受け入れがたいと思っていた人も多いと考えられる。
だが、今回の映画ではほむらは暴走し、結局子供の世界を最後に手に入れることになった。ここにも、
子供の世界を手放して大人になることを拒否して、
強引に子供の世界を維持するという仕掛けがされている。
個人的な感想としては、この作品の本質は脚本の虚淵氏にオタクの持つ大人になりたくない願望を完全に見透かされ、その感情を最大限に利用されたということになると思う。
その点に関しては完全に敗北したと感じがする。
だがここまでやられるといっそ清々しいとも思う。
この徹底的な敗北経験を何かに生かせればとは強く思う。
湯浅誠の言うところの溜めがあるかどうか
ではっきり区別される。
鹿目まどかは溜めがある。
美樹さやかは不明。
その他は溜めがない。
溜めと行動に余裕が生まれる。
溜めがない方は余裕がなく、感情的に不安定
全員について言えるが、自閉的というか
アスペルガー的である。
一部のアニオタで同様の傾向を持つ人間には
深い共感を与えると思われる。
鹿目まどかは安定した過程の下に、
しっかりとした人格を持っている。
それが、緊急時における異様に冷静で大胆な判断
(巴マミを一発で打ちぬくシーン、さやかのソールジェムを投げるところ、最終話での契約のシーンなど)
安定した家庭環境がが安定した性格を生みと、キャリアウーマンである母の決断力がうまく受け継がれている。
また父親のやさしさも受け継がれている。
ようするに、両親の性格とまどかの性格の連続性がうまく描けていると思う。
巴マミの場合は両親や友人がいないことに対する
不安定性が顕著である。
善意で行動しているつもりが、
自分の都合の良いように他者を誘導してしまうところ。
自分の信じていた世界が壊れると、
錯乱してしまう。
溜めがないために、
与えられた状況に全て依存してしまう。
それが、QBに対する極端な信頼であったり、
まどかや美樹さやかを危険であるにもかかわらず、
魔法少女体験ツアーに連れて行ったり、
暁美ほむらに図星をつかれると、敵対してしまうところにあらわれる。
自分の世界が崩壊した時に対する極端な不安定は、
ほむらと対立するシーンやソウルジェムを打ち砕くシーンにも表れる。
依存性が、自らが正しいとする考えに対しても向くのである。
例えば、自分は正義のために魔法少女で戦っているという考え方や、後輩二人に対して善意で判断材料を与えている事が正しいとする考え方である。
それが壊れるとのは、具体的には、魔法少女のシステムが分かる、
あるいは、後輩二人を見学につれることが、彼女らにとって良い結果につながらないとほむらに指摘される時である。
自分の世界が壊された時に、そこに百パーセントに近く依存していたがために、非常に不安定な精神状態に陥り、それまでの一見しっかりしているように見えるふるまりがあっというまに崩壊してしまう。
暁美ほむらについて。
言うまでもなく一週目の鹿目まどかにすべて依存している。依存先をまどかに一元化しているがために、
一見強い安定性やエネルギーを生んでいるように見える。
しかし、まどかに関する状況が揺らぎ始めると、
その仮面が一気に崩壊する。
美樹さやかについて。
本人が幸せバカだというほどには
恵まれた環境にある。
早乙女和子がいうように、上条や仁美との
恋愛沙汰も、通常の思春期に経験しがちな
ことから大きくは逸脱していないように思う。
ただ、天才的な才能をもった上条が怪我により断念
せざるを得なかったこと。
幸せバカであることによる他者に対する異常な同一視。
自分の世界に以上に執着するという点が他の魔法少女と似ている。
佐倉杏子
魔法少女となりすぐに、自分の信じていた世界が崩壊するが、自分のために生きていくことを決断。
一見、現実を受け入れたかの用に見えるが、
こころの奥底ではかつてもっていた自分の世界を
信じたがっている。
美樹さやかにかつて同じ状況を見て改善を促したり、
同情したりするのもそれで説明される。
最後は自分の信念(妄想の世界)に殉じた。
まとめ
全員に共通して言えるのは、
自分の持っている世界観を強く信じる過ぎる傾向。
正しすぎる子供といいかえることもできる。
まどかとほむらを除いて子供の世界が崩壊するとともに、
自分の命も散ることになった。実は上条についても
同じことが言える。バイオリンが好きで才能で全てが通用する子供の世界が崩壊することで悲劇が生まれた。
まどかは母の助言や恵まれた環境を背景にした安定性や思慮深さにより、最後に子供であることを貫き通す決断をしそれがQBの世界観(大人の考え方、子供じみた感情よりも合理性を優先する考え方)に打ち砕くことになった。
子供的な世界観を強く持ったキャラクターが成長に失敗して悲劇を起こす様子が、おなじく、子供的な世界に深く没入している、あるいはそうありたいとおもっている大きなお友達に強い同情を引き起こし、そのしゃがみこみが、
最後のまどかに象徴される子供的世界観が大人的な世界観に勝利してそれが、そのまま宇宙全体の真理に書き換えられるという、子供的自閉的な世界観が宇宙レベルで全肯定されることにより
大きな感情の開放を生みだしたのだろう。
もし原作の虚淵玄がオタクの心情を読み取り
その感情の振れ幅を最大化するため(つまり魂の死、自らの子供世界の消滅=0から宇宙そのものが自分の望んだ子供世界になる+∞への上昇)にこの脚本を書いとすればすごい実験作だと思う。
アニメを作る戦略として、オタクの理想を書くことあるが、 彼らの持つ幼児性を最大限に利用できたのであれば、
それは、オタク業界の脚本家としてある意味で最高峰の成功(作り手としての目的を純粋化してそれをこれ以上ないレベルで実現する。)といえるだろう。
個人的には、それは実際かなり成功したと思われる。
また、今回の新編映画にさらにその傾向が追加された。
一期の最後では、ほむらは自分のアイデンティティーの全てであったまどかとは二度とあえなくなるが、まどかの残した世界(=概念となったまどかそのものの)でたたかっていくといういわば、妥協した世界で大人の女性に成長したのであるが ほんにんはそれを受け入れているかのように描かれている。
多くの大人になれないオタク達にはそれなりの痛みを感じるシーンであっただろうが、それぞれになんとか納得をしていたと思う。それでも、やはり受け入れがたいと思っていた人も多いと考えられる。
だが、今回の映画ではほむらは暴走し、結局子供の世界を最後に手に入れることになった。ここにも、
子供の世界を手放して大人になることを拒否して、
強引に子供の世界を維持するという仕掛けがされている。
個人的な感想としては、この作品の本質は脚本の虚淵氏にオタクの持つ大人になりたくない願望を完全に見透かされ、その感情を最大限に利用されたということになると思う。
その点に関しては完全に敗北したと感じがする。
だがここまでやられるといっそ清々しいとも思う。
この徹底的な敗北経験を何かに生かせればとは強く思う。
巴マミが銃でシャルロッテを打つシーン
まどマギで、マミがシャルロッテを銃を野球のバットの用に使って、打つシーンが非常に好きである。
野球狂の私としては、打つ時の腰の入れかた、膝の入れ方がものすごく芸術的であるように思える。
ただ、銃が長すぎだろとか、そんな先の方で打って大丈夫だろうかとも思うわけだが。
野球狂の私としては、打つ時の腰の入れかた、膝の入れ方がものすごく芸術的であるように思える。
ただ、銃が長すぎだろとか、そんな先の方で打って大丈夫だろうかとも思うわけだが。
fripsideは曲も歌詞も似ている
【MAD】咲-Saki-阿知賀編 -Infinite Orbit-
をみた。
前にもみたが、改めてみた。
fripsideはclosest love ,only my railgun ,level5 judgelight,
fortissimo ultimate crisis,sister's noise,everlasting,
memory of snow ,flower of bravery ,way to answer,
私レジェンドが良い。次点でfuture gazer ,late in autum
他の曲はランクが落ちる。
ifinite orbitはパッとしないがすごくfripsideっぽい
曲ではあると思う。
曲を言葉で述べるのは難しいが、使っている楽器の音色、演奏の仕方、コード進行にパターンがある気がする。
あとfripside全体として歌詞はすごく似ている。
真実、解き明かす、解き放つ、感情、君と一緒にいる、
打ち砕く、孤独、目覚める、未来、現実、暗闇、光
といった言葉が使われる
すごく真理教っぽい雰囲気がある。
歌詞のストーリーや曲調も、猪突猛進に真理の探究、思い人に一直線、憧れの人間に全力で追いつきたい、
理想の未来を手に入れるというように、
極端に理想なものに、全てを掛け手を伸ばそうとするという共通点がある。
理想を全力で求めなければならない背景として、
現実が暗闇につつまれていたり孤独で会ったりする。
そしてそれを自らの意思で打ち砕く必要に迫られる。
どうしても、オウム真理教を連想してしまう。
知識より知恵
知識を蓄えることのもう一歩先。
システムを作ること。
アウトプット、つまり広い意味での他者との関わりにおいては知識そのものよりも、その場に応じた情報を提供することが求められる。
それに対する安易な対策は、知識を増やすことである。
初等教育の一場面においては顕著に行われる。
だが、それではすぐに限界が来る。
知識を持っていなくても、その場で知識を得て、組み立てて、アウトプットするためのマニュアルを作って、
それを改良し続けること。そして、それを無意識に自動的にできるようになることが重要。
システムを作ること。
アウトプット、つまり広い意味での他者との関わりにおいては知識そのものよりも、その場に応じた情報を提供することが求められる。
それに対する安易な対策は、知識を増やすことである。
初等教育の一場面においては顕著に行われる。
だが、それではすぐに限界が来る。
知識を持っていなくても、その場で知識を得て、組み立てて、アウトプットするためのマニュアルを作って、
それを改良し続けること。そして、それを無意識に自動的にできるようになることが重要。
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